2010/03/30

楽しい我が家



いま読んでいる本
Alison Bechdel, Fun Home: A Family Tragicomic
Mariner Books 2006年

日本でも結構人気のあるレズビアンの日常を描いたコミック(ペンギンのレズビアン・アンソロジーにも入ってる)Dykes to Watch Out Forの作者アリソン・ベクデルのグラフィック・メモワール。
ベクデルが20歳くらいのときに事故とも自殺ともわからず亡くなったお父さんの思い出と、死後に残された謎、それに作者自身の青春とが時間軸を前後しながら語られてゆく。
このお父さんは葬儀屋(家業をついだ)兼高校の国語の先生。ちょっと変わっていてゴシック建築ふうの家を自分で直して住み、室内に本格的な装飾をほどこしたり(家族にも強要)庭の手入れをすることにはものすごく熱心だったらしい。子どもの着る服の組み合わせとかにもとても細かく、そして気難しいのか笑っているコマはほとんどない。

大学に入ったベクデルが両親に手紙でカムアウトして、そうしたらお母さんから「お父さんも他の男の人と関係を持ったことがあって…」って打ち明けられるところまで、いま読んだ(60ページくらい)。これがお父さんの死の約4ヶ月前。ぎゃー、続きが気になるけど仕事に行かなくちゃいけない、もう休んじゃってもいいかな、だめだよね。電車の中でまた読みます。

↓本にサインしているベクデルさん

ホームページもイラストがいっぱいだしブログもおもしろい。Dykes to Watch Out Forもほぼ全作が一冊になっているのが出てることがわかった。これも早く読みたいし!!もう仕事休んじゃってもいいかな、いいよね。でも今日はとりあえず行こう。


読んでるぜ!

そう、皆さんお気づきの通り私の持っているトイカメラにタイマー機能があることを発見しました。
しかし自分ばっか撮るのもなんなのでこれからは他の人に私が読んでる本を持ってもらって撮りたいと思ってるの、どうかなみんな、映ってくれるかな。

ちなみにまったく関係ないけどこの写真の↑髪形はDelusional Downtown Divasのスワンだよ↓
これ、私の好きなエピソード↓ パフォーマンス・アートの極限を突き詰めるべく(アブラモヴィッチとかとは全然違う意味で)グッゲンハイム美術館にキャンプを張る三人娘。

Night At The Museum (episode 8, season 2) from Lena Dunham on Vimeo.



他のエピソードも全部Index Magazineのウェブサイトで見られる。もうこの人生ではこういうダラダラしたお金持ちのアート・スノッブみたいになることはないと思うしなりたくもないけど(そうは言ってもこのドラマ?のなかでもその全てがジョークなんだけど)、洋服のセンスは見習いたいと思う次第です。

おお、完璧遅刻です。

feminist art


ポートランド在住のアーティストSarah Faith GottesdienerのTシャツを着ている。そうやはり誰が何を言おうとも、フェミニスト・アートなくしては夜も日も明けないのよ私。

2010/03/19

カバー集・『若草物語』編


A. ジョー中心主義





参考:
女性としての宿命について、ポジティブに考えられるようになったのはルイザ・メイ・オルコットのおかげだった。ジョー・マーチから新しいゴールに向かう勇気をもらった私は、すぐに小さなお話を作ったり、長い物語を紡いでは妹や弟に聞かせるようになった。それ以来、いつの日か作家になるという夢をいつも心に抱いていた。
-パティ・スミス、Just Kidsより

B. 楽しい音楽



C. 楽しい読書


D. 楽しいピクニック







E.お父様からお手紙







F. 素敵な四人





G. 素敵な二人

H.ちょっとだけ怖い


I.クラシックなパンク

J. オルタナ

K. 私が作者です

書きかけ

2010/03/16

気のいい女ともだち



マーガレット・ドラブル『碾臼』(小野寺健訳)

思いもよらず妊娠して未婚の母になることを決めた主人公のロザマンドは、エリザベス朝の詩人についての論文を書いてる学者のたまご。理屈っぽいのか正直なのかよくわからないことを言ったりするのが妙に私やあなたのようですね。例えば、子どもを産んだ後の変化について語っている箇所↓
いかにも誤解されそうだけど、あの女性特有の不条理な考え方を抱くようになったのだと思われては困る。おしめを買うことばかり考えて、わがエリザベス朝詩人たちの意味が色褪せはじめたわけではなかった。(略)論理の陣営から直観の陣営へと走ったわけではない。それまでは認識していなかった、というより気がつきもしなかったさまざまの事実がわかるようになったと言いたいのだ。無知には論理もへちまもない。


しかしまあ、なんと言ってもこの小説で好きなのは、きちんとしてて頼もしいこの主人公ではなくて、彼女の女友だちのリディアって人。リディアはいちおう小説家なんだけどスランプに陥っていて、ときにひがみっぽいことを言ったりする。
「わたし、小説じゃなくて、研究書が書けたらいいと思うわ。うすぎたない大きな蜘蛛みたいに自分の中からむりやり糸を引っぱり出すようなまねなんかやめにしたいわよ。エリザベス朝詩人のことでも書けたらいいと思うわ」
「誰も書くなとは言ってないわよ」とわたし(注:この[わたし]はもちろん主人公ロザマンド)が言うと、彼女は大きな溜息をついて、指先を食いちぎりそうに噛んだ。
「ああ、そこなのよ、わたしにはあなたみたいな教養がないもの」

「私は賢いし強いし、大丈夫、やっていける」という自信のもとに、ひとりでも子どもを産み育てる決心をするロザマンドに対して、妊娠中の彼女の家に転がり込んで来た失業中のリディアは、なんだか弱気になっている。「昔は徹底した悪(わる)が好きだった」けどこのごろは興味がなくなった、「上品でおとなしい、いい男の子がいないかなあ、私がうまくやっていけるのは、ほんとうはああいう人なのよ」とか言ったりね。
だけど、この2人の共同生活や家事の分担はとてもうまくいく。だってリディアは「おもしろい人柄」なのだから。

だけれどこのしょうもないリディア、あろうことかロザマンドの未婚の妊娠の経緯をひそかにちゃっかり小説のネタにしていて、その原稿をロザマンドに見つかってしまう。こういうのはたいがい勝手にモデルにされた本人からすると腹立たしいものだったりするんだけど(『Lの世界』のジェニーが書いた小説みたいにさ)、原稿を読んだロザマンドは最初は怒るものの、そこに描かれた自分たちの関係のとらえ方を読んでとても明るい気分になる。

肝心の出産の日にたまたまパーティに出かけていたリディアは、陣痛がきたロザマンドが救急車に乗ろうとしたちょうどそのとき、ご機嫌で帰宅する。ちなみにそのいでたちは「奇妙なデザインのグリーンの長いドレス」の上に「ふだんのグレイのレインコート」をひっかけて(ほかにコートがなかったから)、髪が下にたれさがっているばかりか「片方の頬には一面に口紅をぬりたくっている」。 この場面は本当に最高。事情がわかるとロザマンドを「両腕に抱きかかえて何度もキスしたあげくエレベーターの下までついてきて」、その間もパーティのことや、そこでロザマンドの元恋人に会ったことを喋りまくるので、ロザマンドも救急車の人も黙りこくって聞いてるしかない。救急車の人はリディアに病院までついてくるように言うけれど、ロザマンドはあわてて断る。
自分のお産の光景が逐一彼女の職業的好奇心にさらされかねないとと思うと、ぞっとしたのだ。もしどんなものかをほんとうに知りたければ、彼女が自分で赤ん坊を生めばいい、とわたしは思った。彼女は歩道で別れの手を振って、救急車が動き出すと、うしろから大声で、元気でね、と叫んだ。だらしなく着くずれた変な衣裳姿の彼女は、いかにも奇妙でかわいらしく見えた。

いいねいいねかわいいね!!
しかしつくづく、誰かのこういう気軽で気のいい女友だちのひとり、って立場でいられるなら一生楽しいだろうなと思いますが、現実では私たちの演じる役割がそれだけってこともありえなくて、もっと重要な脇役(助演女優賞にノミネートされるぐらい)を演じたり、自分メインのストーリーも進めていかなきゃいけないし、悩ましいことですね、皆さんいかがですか。

2010/03/14

夜の森ガール


去年くらいから森ガールって言葉をよく見聞きしてきた、そしてむらガ~ル(森ガールに群がるのよ)的なものも。この言葉(むらじゃなく森のほう)を初めて聞いた頃、私のチームメイトのミャーザキくんが「森ガールってヴェロニク・ブランキーノとか着てる人かな」と言うので、何で?と思っていたが『A MAGAZINE curated by VERONIQUE BRANQUINHO』のファッションページを見て、合点がいった。
↓のパラパラ映像の40秒くらいから1分6秒くらいまで。

そう、やっぱり森ってところは木がうっそうと茂って昼なお暗き場所って感じ。
そして夜の森ともなれば普通の女の子が魔女になって出てくる場所だというイメージがあるのは、アーサー・ミラーの『るつぼ』やなんかが連想されるから。マサチューセッツ州セイラムの魔女裁判を(それを通したマッカーシズム批判を)テーマにした戯曲だけれど、久しぶりに読んだらなんかハラハラして背筋にゾクゾク来ちゃった。たぶん、初めて読んだときより今のほうが魔女っぽい人、魔女狩りっぽい事柄になじみがあるからかもしれないね。しかし、「森の中で黒人奴隷ティテュバと少女たちが裸で踊る」(悪魔を呼んでいる)シーンがあったはずと思ったのは私の勘違いで、それを見てしまった牧師さんから話が始まってた。

『るつぼ』の映画化『クルーシブルー』のスチルとポスター、森のガールたちフィチャーされてんね。ちなみにマサチューセッツ州チェルシー出身の元ゴス(高校時代)、ミシェル・ティーのメモワールによれば、ゴスっ子の中でセイラム出身というのは当然かなりのステイタスらしい。

でもやっぱり「森、女たち」と言えば私にはこれを置いてないってもんである。
      デューナ・バーンズ『夜の森』

実際にはタイトル(邦題)に入っているけれど特に森の話じゃない、でも触ることさえできそうな濃い闇の中でうごめく魂の話ではあるの。読んでいて思わずうっとり見えないものを見つめたり、ううっとうなってしまう箇所は数え切れない、いまパラパラめくっていて思わず胸がつかえて咳き込んだのはここだ↓


以前きみは誰も愛したことはなかった、これから先も二度と誰も愛さないだろう、ロビンを愛しているようには。大いに結構-ところで、少年にせよ少女にせよ、倒錯者に寄せるわたしたちのこの愛は、どういうものだろう? わたしたちが昔読んだどの物語でも、語られていたのは、そういう少年や少女のことだった。迷い子になった女の子、その少女は見出された《王子さま》でなくて、なんだろう? いつもわたしたちが探し求めてきた白馬にまたがった《王子さま》だ。そして少女であるこのきれいな少年は、手編みレースで身を飾った王子=王女でなくて、なんだろう-互いに自分であって半ば相手でもある、扇の絵みたいに! だからこそ、わたしたちは彼らを愛するんだ。幼少の頃、なによりも甘美な嘘、子どもの読本のなかを馬で疾駆する彼らを見て、わたしたちは彼らの上に串刺しにされて重なってしまったのだ、そしていま、彼らは少年や少女の姿になって生きている、少女のなかにいるのはかの王子だ、少年のなかにいるのは王子を王子たらしめる-けっして大人の男なんかにしない、あの少女だ。彼らはわたしたちの遠く遥かに失われた世界につながっている、そこではわたしたちがついに得られなかったものが、いまなおじっと待っている。

余談ですがデューナ・バーンズにまつわる私の好きな事柄ふたつ
①カーソン・マッカラーズはバーンズに一目会いたいとグリニッジ・ヴィレッジの彼女のアパートの階段前にキャンプを張った
②コペンハーゲン出身でいまや世界中で人気者のダイクDJは、その名もDJデューナ・バーンズ
この真ん中の人↓おいなんだ、かっこよすぎる。できればこういうガールが流行って欲しいぜ。

さて最後に再びミャーザキ君は「森ガールってスリーターキニーのことか」とも言っていた。彼女たちの最後のアルバムのタイトルはその名も『Woods』だし、シングルカットされた「Entertain」という曲のPVはまさに昼なのに暗い森の中だ↓

もし薄暗い森の奥深くから地響きのようにこんな音楽が聞こえてきたら、
「Don't let me down, I'm not falling down」というすさまじい祈りのような歌声が響いてきたら、
私はそこに自ら迷い込んで、ものすごいことになって出てくるよ。でもいまはまだ出口が見えない。