2010/06/30

ミスター・ミセス・ミス・ロンリー


カーソン・マッカラーズの書いたものの中で最もよく引用される有名な文章、それはThe Ballad of the Sad Cafeの中の、この部分。
まず第一に、愛とは二人の人間の共同体験である―しかし、共同体験であるからといって、それが当事者の二人にとって似たような体験であるとはかぎらない。愛する者があり、愛される者があるわけだが、この二人は、いわば別の国の人間である。多くの場合、愛される者は、それまで長い間愛する者の心のなかに、ひそかに蓄積されていた愛を爆発させる起爆剤にすぎないことがある。そして、なぜかすべての愛する人はこのことを知っている。愛する人は魂の奥底で、自分の愛が孤独なものであることを知っている。彼は、新しい、未知の孤独を知るようになり、これを知ることによって悩むのである。そこで、愛する者のすべきことはたった一つしかない。彼は自分の愛を、できるだけうまく自分のなかに包み込まなければならない。彼は自分のために完全な新しい内的世界を創造しなければならない―それは緊張した未知の世界であり、彼の内部で完成する世界である。ここでひとこと付け加えておきたいが、今われわれが話題にしている愛する人というのは、(略)男でも女でも子供でも、いやこの地上に住むどの人間でもかまわないのである。
カーソン・マッカラーズ『悲しき酒場の唄』(西田実 訳)

もちろんこの後に「愛する者」と対になる「愛される者」についての文章が続く。すなわち愛される者もまたどんな種類の人間でもかまわず、「奇怪きわまる人間」でも「嘘つきで、汚い髪の悪事の常習者」でも、「愛の起爆剤」になり得る。マッカラーズの主な作品はどれもこれもほぼ、この愛の図式に貫かれている。
じゃあこれぞ愛の真理だと私は思うかと聞かれたら、おそらく違うかもしれない。少なくとも愛の形、喜びや苦しみは別のところにもあるのだという思いが年々強くなる。同時に「愛する者」で「愛される者」でありえることはやっぱりあるし、それなのにその愛がどこにも行き場がないことさえあるんだもの(それにしても今日の私は愛、愛って何回書くんだ、我に返ると照れるぜ)。それでも、マッカラーズが描く一方通行な愛の孤独を胸に抱えて生きる人たちの世界はいとおしくてヒリヒリする。特にその「愛する者」が12歳の少女で、彼女の愛の対象が(一人の人ではなくて)「世界」だったりする『結婚式のメンバー』を読んでいるといつもそう。あああ、私(DIRTY)からのこの広い広い世界へのラブコールもいつか届くのかしら、くっすん、もうほんと嫌い、最低、でもやっぱり好き。

さて話は変わりますが

もう亡くなって一年なんだな、といろいろな映像をみていてこの動画を見つけた。


美しくて、悲しくてちょっと滑稽で、強い憧れと切なさがあふれていて、見ていると息が止まりそうだ。
この寂しげな男の人たち(ダンサーだね)と「いつかやってくる 私の愛する人 大きくて強い 私の好きな人」という夢見るような歌詞。それを手話で表現する指や手の動きを追うと、まるで彼らの胸の中に孤独な愛の世界がせっせと組み立てられていくのを見ているみたい。出来上がっていくのは他の誰にも見えない夢のお城、マッカラーズの言葉でいうと「彼の内部で完成する」「緊張した未知の世界」だ。
張り詰めたような表情が、だんだんうっとり夢見る人の顔に見えてくるから不思議。


↓ これまたタイトルだけ拝借(でも、関係なかない)

いろいろいろ思うことはあるけれど、やっぱりロマンチック。泣きそう。

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